坂城の百人、第42回目は坂城町の寺子屋の師匠として多くの弟子を育てた、山城一圭(1862~1895)について記述します。
内容については、坂城町の寺子屋について精力的に調査、研究を進められておられる、前坂城町図書館長の大橋昌人先生にご提供いただきました。今後、代表的な寺子屋の師匠5名を選んで掲載していきます。
坂城町の寺子屋師匠(1) 山城一圭(上五明村)>
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上五明の寺子屋師匠である山城一圭について『更級郡・埴科郡人名辞書』に、次のように記されている。
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「幕末明治時代の寺子屋師匠、文久二年更級郡村上村字上五明に生る。幼にして学を好み、同村西教寺住職眞譽和尚について漢籍を学び、和算又俳句等を修める。家に寺子屋を開いて近郷の子弟に漢文及び珠算等を教える。来り学ぶもの五十六名の多きに達した。明治二十七年八月歿す。享年僅かに三十三、子弟その徳を頌して村の入り口に碑を建てその恩に報いる。」>
山城一圭の孫にあたる山城昭先生が平成二十四年二月二十四日にご逝去された。遺族が家にある手本や文書類を町に寄贈された(現在は、格致学校に納められている)。前副町長の 澤哲先生が整理され、さかき歴史同好会『さかき』第九号に「山城昭氏寄贈文書目録について」として、寄稿している。>
筆塚(顕彰碑)は、現在坂城大橋から村上方面に向かい、渡辺製作所から西(右)へ入る道、五〇mほど行った北側に建っている。かつては自宅近くにあったのを移転したものである。碑には、「一圭先生碑」とあるが、 澤先生が目録を作ってみると、「一圭」ではなく「一景」と記された文書もあり、その多くは本名の市三郎と記しているという。>
市三郎は、文久二年(一八六二)の生まれで、明治元年はまだ六歳、学校が設立される明治七年には十二歳であった。学校に行かない、行けない青年たちは、夜学で学んだ。上五明村には「明治共学会」が設立され、市三郎はそこで学び、指導者でもあった。また、明治二十二年四月、村上村初の村会議員にも当選している。
坂城町長 山村ひろし