今までに、江戸末期の坂城で高名だった文人として女流の歌人、藤澤雨虹や沓掛なか子をご紹介しましたが、今回は同じ時期に活躍した男性の登場です。
(以下の資料は鉄の展示館宮下学芸員から提供いただきました。)
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滝澤公庵(こうあん) 1773(安永2)~1847(弘化4)年
滝澤公庵は江戸時代後期の医師で、本草学や国学・和歌(坂城の国学の先駆者)など多岐に亘って活躍した人物です。
鼠宿村に生まれた公庵は、若い頃江戸へ出て武田叔庵について医学を学ぶかたわら、詩歌と本草学を修め、帰郷して医業を開きました。
家に松の大木があったので松酒家と号し、名を木公庵と改め、後に略して公庵といいました。暇があれば山谷を歩いて本草学を研究し、一木一草名知らないものはなかったといいます。
庭に多くの薬草を植え、薬種を作ったりしました。
天保の飢饉の時、藩命によって村を巡回し、救荒植物栽培を指導した功によって苗字帯刀を許されました。
国学者飯塚久敏や荒木田久老(ひさおゆ)が北信濃を来遊した際、和歌の指導を受け、同門の沓掛なか子らと交わり、歌集『松のいほり』二巻を残しました。
紀行の歌の中に
みつくりの中山道は冴にけり 浅間おろしの雪の夕暮れ
一重山のほとりに旅寝して
秋さむみ旅の衣のひとへやま 重ねまほしく嵐ふくなり
万葉防人歌碑(マンヨウサキモリカヒ)
坂城南端の南条、会地早雄(おおちはやお)神社の境内にある万葉歌碑。
滝沢公庵により天保年間に建立されました。
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以上、滝澤公庵のご紹介をしました。
現在、坂城町 「ふるさと歴史館」 の一階で 『パネル展 「坂城町の偉人」 ~近世の文人墨客~』 で 坂城町の偉人たちとして、文人墨客15名を紹介していますので、こちらもご覧ください。
坂城町長 山村ひろし