この章ではいよいよ老子の本質的な部分に入っていきます。それは「私心私欲」を持たない世界です。
老子には後世、副題が付けられましたが、この章には「韜光(とうこう)」というタイトルがしばしば使われています。「韜光曖跡(とうこうまいせき)」という言葉があります。これは「光を包みおさめて跡を晦(くら)ます」という意味ですが、わが身を人の外側におきながらそれでいて自ずから人に招かれてその場にいる、というような無為自然の立ち振る舞いについて述べています。人前にしゃしゃり出るのではなく、自然に多くの人から推挙され自然に人々のリーダーになることの大切さについて述べています。なかなか難しいですね。
天長地久。天地所以能長且久者、以其不自生、故能長久。是以聖人後其身而身先、外其身而身存。非以其無私邪。故能成其私。
天は長く地は久し。天地の能く長く且つ久しき所以の者は、其の自ら生きんとせざるを以てなり。故に能く長久なり。」是を以って聖人は其の身を後にして身先んじ、其の身を外にして身存す。其の私無きを以てに非ずや。故に能く其の私を成す。
天は永久であり、地もその果てるところを知らない。天地がこのように永遠で長く続くのは自らが無為であり、ことさらに生きようとしていないからです。だからこそ長く久しく続くのです。このように見てみると聖人は自ら表立って前に出ないのに人から推され、常に中心部にいようとしているわけでもないのに中心的存在となっている。これは私利私欲を持たず無為の状態でいるからこそであり、結果として物事を成就することが出来るのです。
以上。
坂城町長 山村ひろし