先日(8月26日)、松本市で、慶應義塾大学卒業生(塾員)の、 「平成30年オール信州三田会」 の総会・講演会が開催されました。
講演者として、昨年、第19代目の慶応義塾塾長に就任された、長谷山彰氏のお話をうかがいました。
長谷山彰塾長は日本を代表する法学者で、文学部長を務めた後、清家前塾長のもとで常務理事を長く努められました。
昨年の塾長選挙では元経済学部長だった細田衛士氏が得票ではトップとなりながら、その後の選考委員会、評議員委員会で得票数で2位だった長谷山彰氏が塾長として選ばれたために、その後、いささか紛糾しました。
このような経緯があったので、長谷山さんがどのような方なのか大変関心がありましたが、今回、お会いしていろいろお話を伺うと、さすが、慶応の塾長として素晴らしい方だとあらためて認識しました。
数年前の講演会で前塾長の清家篤さんが、 「奴雁(どがん)の視点で」 というテーマでお話いただい内容が強く印象に残っています。 それは以下のような内容でした。
つまり、「奴雁の視点で」 とは、福沢諭吉先生が言われたそうですが、「雁の群れが一心に餌を啄んでいるときに、一羽首を高く揚げて難に備える番をするもの。」 だそうです。 学者、政治家あるいは経営者は常に 「遠くを見すえ、現状を冷静に分析し、将来のために何が最も良いことかを考える者」 の存在でなくてはならないということでありました。
今回の長谷山塾長のお話のなかで、慶応義塾の根幹についてのお話がありました。 印象に残ったものをいくつかご紹介します。
まず、慶応義塾の来歴。
慶応義塾が設立されたのは、1858年(安政5年)で、今年は設立から160周年目となること。 当初は、中津藩江戸屋敷邸内の「蘭学塾」で正式な塾名は無かったそうです。 その後、芝新銭座に移り、いわば独立したのが1868年(慶応4年)で、「慶応義塾」と命名。 ここから数えて今年が150周年目となる。 (慶応4年は9月8日より明治となりました。 したがって、「安政義塾」、「明治義塾」の可能性もあったわけですが、やはり、「慶応義塾」がすっきりしますね。 なお、慶応義塾が三田へ移ったのは明治4年)
福澤諭吉先生が大切にしていたもの。
慶応4年、戊辰戦争の一つとして、上野で、彰義隊と新政府軍の戦いが行われている最中に、福澤諭吉先生は微動だにせず、ウェーランドの経済学の講義を続けていたことは有名ですが、福澤諭吉先生が大切にしていたのは単に経済の問題だけでなく、同時に「モラサイエンス」(修身論)の大切さを講じていたそうです。 つまり、現在、企業の不正が横行していますが、それを真っ先に危惧し学生たちに教えていたと言うことです。
また、文武両道の大切さも教え、「本だけでなく身を鍛える」 ことを実践した。
また、「演説と討論」の大切さを説き、三田に「演説館」を作り自らも演説を行った。
コミュニケーションの重要性を訴え、「世の中で大切なものは人と人との交わりなり。」 ということです。
犬養毅が5・15事件で暗殺された祭に、襲った将校たちに 「話せば分かる」 と言い、その後、重症を負いながらも、「いま襲った男を連れて来い。よく話して聞かすから。」 と述べたと言われていますが、これも福澤諭吉先生の影響だと言われています。
以上ですが、今まで、毎回、慶応の塾長さんが来られるたびに、福澤諭吉先生のルーツは信州で、その中でも坂城町の可能性が高いという話を申し上げてきましたが、長谷山塾長はその件について十分ご存知でした。 いままでのPR効果が出てきたのかと思っています。
坂城町長 山村ひろし