本日(6月16日)、(株)竹内製作所代表取締役会長の竹内明雄さんが役場へ来られました。
竹内明雄さんは昭和38年、裸一貫、29歳で(株)竹内製作所を設立され、一代で小型建機(ミニショベル)の分野で世界に冠たる会社に育て上げられました。
現在では東証一部上場企業として年間売上 1,100億円を超える、大企業となりました。
その竹内さんの一代記を、昭和15年(1940年)、4月村上尋常小学校に入学した同級生の倉科清人さん、塚田裕重さん、大橋幸文さんらがこのたび、「竹内製作所創業者 竹内明雄君一代記」として素晴らしい本にまとめられました。 大変心温まる一代記です。
ここに全文を掲載するのは難しいので、私の「お祝いのメッセージ」と「大橋幸文さんのまえがき」を以下に掲載します。
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「竹内製作所創業者竹内明雄君一代記」発刊をお祝いして
坂城町長 山村 弘
このたびは、「竹内明雄君一代記」の発刊、誠におめでとうございます。
竹内明雄様と昭和5年に村上尋常小学校に入学された同級生の倉科清人さん、大橋幸文さん、元々の発案者であられた恩師の小林達雄先生のお話などを伺いこの「一代記」がいつ頃完成するのかと心待ちにしておりましたところ、今年4月になり「一代記」がいよいよ完成するので、お祝いのメッセージを書くようにお話をいただきました。誠に光栄であり心よりお祝い申し上げます。
竹内明雄様とのお付き合いは私が東京から坂城へ移り、竹内製作所さんのほぼ隣に引っ越してからの約10年となります。親しくお近づきさせていただくにつれ、昭和、平成、令和を通し、一代で「世界のTAKEUCHI」を創り上げられた歴史的経営者の生きざま、経営哲学、そして何よりもそのお人柄に接し、心より感銘を受けておりました。昨年、竹内様には坂城町名誉町民の称号を受けていただきました。
私は、セブン&アイホールディングの鈴木敏夫様が名誉町民の称号を受けられたのが平成13年であり、その次に名誉町民の称号を受けていただくのは竹内明雄様以外にはおられないと思い、4年ほど前から打診をさせていただきましたが、その都度、「私はその器ではない」、「まだその時期ではない」と言われ、ご了解を頂くことができませんでした。
しかしながら、その後、竹内製作所さんが東証一部上場をなされ、売り上げも1000億円を達成され、また、代表取締役会長に就任されるなど、ようやく一つの「節目」を迎えられたことから再度お願いをし、坂城町名誉町民の称号を受けていただくことができました。心より良かったなと思いました。
あわせてこの度は、坂城町の誇り「竹内製作所創業者竹内明雄君一代記」の発刊。これで、世界に冠たる「TAKEUCHI」の物語がこれからも長く語られることとなりました。心よりのお祝いを重ねて申し上げます。
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まえがき 同級生大橋幸文
竹内明雄君と私たちは、昭和15年(1940)4月村上尋常高等小学校(当時は更級郡村上村)に入学しました。翌16年には村上国民学校と改められこの年の 12月8日、アジア太平洋戦争がはじまりました。昭和17年4月からは男女別の学級に編成され、東組は男子だけの学級となりました。
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年生となった4月担任の楢原操先生が軍隊に招集され、代わりに旧制の屋代中学校(現屋代高校)を卒業したばかりの小林達雄先生が担任となりました。
小林先生は、楢原先生が入営されるまでの一週間ほど授業参観しただけの担任でした。
若さに任せた徹底した軍隊調の戦時教育をうけました。忘れられない先生でした。
長い時を経て小林先生と再会する事になりました。
平成24年(2012)5月、昭和20年度村上国民学校終了( 男46名、女53名、計99 名)、昭和23 年度、村上中学校卒業の村上村全体の同級会を数十年ぶりに開催しました。3人の恩師の先生(中曽根千佳、小林達雄、大井憲五) の一人として小林先生に再会しました。
竹内明雄君の活躍を承知されていた小林先生は、同級会に出席後、「竹内明雄君成功物語」の執筆に取り組みたいと話されました。
平成 25~27 年の同級会 には、取材ノートを片手にぜひ完成させたいとの思いを語る先生の姿を見て、完成を待とうと平成28年(2016)の同級会を取りやめました。
この年の暮れに先生は亡くなられ、小林先生による「竹内明雄君成功物語」は未完に終わりました。
小林達雄先生は、大正14年(1925)1 月 1 日生、平成28 年(2016)12月14日他界。先生は更級郡東福寺村(現長野市篠ノ井東福寺)の旧家に生まれました。 9人兄弟姉妹(男6人女3人)の真ん中だったとのことです。
小林先生は、幼少のころの小児麻痺の後遺症で足が少し不自由でした。
教職歴は、県立屋代中学校卒業後の昭和18年(1943)5月1日~20年(1945) 6月30日まで村上国民学校教員だけです。(18年度東組男子、19年度5年西組女子担任)
地方議員( 篠ノ井町、篠ノ井市、長野市へと合併)を昭和33年(1958)~42 年(1967)9月30日まで10年ほど、勤めています。
昭和52年には長野県行政書士会に入会、平成 11年(1999)~17年(2005)5 月まで会長を務められました。
一方、作家として何冊かの作品を刊行しています。
羽生達雄(ペンネ ーム)『竜虎の宿』(平成 19 年信毎書籍出版センター刊)、『断層の時代』(1998 年島影社刊)など。
「竹内明雄君成功物語」を執筆しようと決めた小林先生は専用の大学ノートを片手に調査をはじめました。私の所へも年に数回来訪されました。 その都度案内したり相談に乗ったり、参考図書や関係資料を提供してきました。しかし先生の身上にも様々な事があり、執筆はなかなか進まないようでした。
平成 29 年 (2017) に入り、先生から執筆を手伝ってほしいとの電話 を受けました。自分史の執筆から書く事を重ねてきた倉科君にも一緒に手助けをお願いしようと、10月23 日、二人で小林先生の事務所(長野市川中島町御
厨)を訪問しました。
しばらくぶりでお会いしたところ、先生は老化が進み、取材ノートも原稿
も見せて頂くことなく、全て頭の中にあるとのお話に驚かされるばかりでした。倉科君と二人して必要になったらまた声をかけて下さい、と別れてきました。その足で竹内製作所へ立ち寄り竹内君に実情を伝えました。
翌年 4 月に入って銀河書房の滝沢知寛君(『テクノハートさかき 坂城町
工業発達史』担当者)から小林先生は、昨年の 12 月14 日に亡くなられ、ごく限られた身内だけで葬儀が行われたと知らされました。
昨年お会いして二カ月も経たずに亡くなられていたことに驚くとともに、
残された資料について滝沢君に確かめてもらったところ、家主より12 月末までに取り片付けるように言われ全てを処分したとのことでした。
それでもと滝沢君に空き家を見てもらっ たところ、さまざまな賞状類や写真などが入ったダンボール箱が 4 つ残されていただけだったとのことでした。
小林先生の集められた竹内君に関する資料は全て失われてしまいました。
本書(『竹内製作所創業者竹内明雄君一代記』)を編集した倉科清人君につ いても一言ふれます。
一緒に小林達雄 先生を訪ねた時も、「竹内製作所」 とタイト ルのついた 6 枚の原稿を持参していました。先生に渡せる状況ではなかったのですが、既 に手伝ってやろうという気持ちだった事が分かり驚きました。自分史を書いた体験から、気軽に筆を執る事ができるようになっていたのだと思います。
庭師としての修行と共に、神仏にたいする学びは数冊の冊子にまとめられ ています。最近では『何の為に生きる、良心 は人生の羅針盤』(平成 30 年刊行)を執筆しています。
彼には己の思想、哲学があります。また同級会の裏方や、厄介なことを頼んでも黙って引き受けてくれます。
今回は、竹内明雄君の一代記を編集するという大役を引き受けてくれました。倉科君の知っているエピソードをまじえてまさに全力投球でまとめられた姿に打たれるばかりです。
かつて小林先生の要望で、竹内明雄君について同級生の思い出を、アンケ ートしました。その中に子供のころはおとなしかった竹内君が、いまや大企 業(世界企業)の創業経営者として名声を天下に轟かせるようになったので す。
「あの社長とは小学校の同級生だよと人に自慢し誇らしく思い、今後ますま す発展する事を心から願っています」という共通の思いが多くよせられました。
恩義を大切にし、情に厚い倉科君という同級生のおかげで本書ができました。どうぞ手に取ってください。
坂城町長 山村ひろし