坂城の100人 第32回は村上信貞(のぶさだ)です。
村上信貞は以前記述した村上義光(よしてる)の弟ですが、信貞についてはもっと再認識され、研究されなくてはならないと思います。
(村上義光については以下のサイトから)
http://blog.valley.ne.jp/home/yamamura/?itemid=33151
村上義光は上記のサイトに書かれるように 「元弘の変に護良(もりよし)親王に従い、南都から紀伊国十津川に逃れてこの地の土豪を頼ったが、北条氏の命をうけた熊野別当定遍の探査を避けて十津川を出て、後に吉野山に入って幕府軍の攻撃を防いだ。 元弘3年(1333)年閏2月1日吉野城は落ちたが、この時義光は子の義隆とともに親王の脱出をはかるため、親王の身代わりとなって敵の目前で壮烈な自害を遂げた。」 ということで、戦前は忠君の士として日本国中で有名になった人物であります。
しかしながら、坂城町にとってはその弟の村上信貞も大変重要な人物であります。
村上信貞は南北朝時代足利尊氏側(北朝)につき、新田義貞征伐の中心となり、越後へ出兵したりしますが、北条氏の勢力を排除するため、当時、坂城側を治めていた薩摩工藤一族(北条氏側)を滅ぼし更科郡から埴科郡へ勢力を伸ばすことになりました。
(村上から坂城へ本拠を移したのは元中2(1385)年ころと言われています。)
葛尾城址
葛尾城址からみた風景、上田市・千曲市方面を一望にする絶景(ながの観光コンベンションビューローならびに坂城町資料より)
また、村上信貞は足利尊氏から種々の軍功により 「信濃惣大将」 (どうも正式な称号ではないようですが)と いう称号を与えられ、塩田庄(上田市)を所領化し福沢氏(後の福沢諭吉のルーツ)を代官として派遣しています。
塩田城跡建物跡全景
元弘三年(1333)、塩田の地を治めていた塩田北条氏が滅亡した後、ここは坂木(城)を本拠とした勢力者村上信貞の領地となったことが記録にみえます。村上氏は、室町中期以後重臣福沢氏をこの塩田城におき、前線基地として長い間統治した。 (上田市資料より)
以下、簡単な記述ではありますが、坂城町資料より紹介します。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
村上信貞
後期・南北朝時代の人
初め蔵人、備中守、河内守を称す。
更級郡村上郷を本拠とし、建武2年(1335)9月、信濃惣大将となり薩摩刑部左衛門を坂城北条に攻める。
翌年1月、埴科郡英多荘清滝城を攻め、さらに更級郡牧城の香坂入道を攻め、2月に北条高時の一族四朗時興と筑摩郡麻績御厨で戦う。6月には再度牧城を攻めて破り、11月は越後に攻め入って同国守護、目代らの軍を攻めて破る。翌年には足利尊氏党として、正月には新田義貞の軍を越前金崎城に攻めて攻撃を繰り返してここを陥れた。
初め後醍醐天皇方(南朝)に属したが、尊氏が天皇に背くに及んで、以後尊氏党(北朝)として信濃惣大将と称し、軍功を立てた。
この信貞の時代に、後に村上氏が本拠を置く坂城郷や塩田庄を所領化している。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
以上のように、当時の村上信貞の活躍は縦横無尽であり、現在の坂城町の原型を作った人物であります。
坂城町長 山村ひろし