「坂城の100人」 第4回目は 薄雲 太夫です。

「坂城の100人」 第4回目は 薄雲太夫です。

薄雲太夫 (源氏物語の「薄雲」ではありません)、 信州埴科郡鼠宿の玉井清左衛門の娘(玉井てる)は、元禄年間(1688~1704)の太夫として有名を馳せた江戸新吉原京町一丁目の三浦屋の遊女で、同時代の高尾と並び名妓と称された人です。

 坂城出身のこのような有名な遊女がいたことに驚きですね。

 まだまだ不明な点が多く、識者の皆様方のご意見を賜れば幸いです。         

月岡芳年(明治8年)

                         

 とにかく、有名な遊女であり、可愛がっていた猫(玉)とともに多くの逸話が残っています。

 また、当時の吉原では同じ源氏名を何代にもわたって使っていたわけですが、別の遊女で江戸前期の、初代といわれている薄雲がいます。(但し、初代薄雲ではなく、高尾太夫であったとの説が有力。)

                       

 初代薄雲(高尾太夫) : 吉原京町1丁目信濃屋藤左衛門の抱えで、和歌をよくし、書に堪能俳諧に名あり、義侠心に富み、金銀にものいわせる客には目もくれなかったと言われた薄雲(高尾)がいます。

 この薄雲(高尾)は万治年間(165861)、仙台藩主第三代伊達綱宗の愛するところとなりますが、鳥取藩士島田重三郎に操を捧げて、半年におよぶも伊達綱宗には肌を許さず、3000両で身請けされたのちも意に従わず、ために一室に幽閉され,10日に10指を断ち落とす」と脅迫されても、なおかたくなに拒み、ついに殺されてしまったということです。

       

道哲和尚、高尾太夫の墓 

正面屋根の下にあるのが高尾大夫の墓で、向かって左手の座像が高尾の回向をした道哲和尚の墓です。右手の標柱には「二代目萬治高尾 轉譽(転誉)妙身信女」と刻まれています。(西方寺ブログより)         

 

                   

薄雲の墓 東京品川、妙蓮寺(山村撮影)

                   

 一方、坂城町出身の薄雲は猫が好きで、この溺愛していた猫(玉)が、命を賭して大蛇から主人薄雲を守ったという報恩談が残っていて、この逸話から招き猫が始まったとする説があります。

 (薄雲の愛猫、玉がいつでも薄雲に付いて来る。 厠へも一緒に入りたがることがあり、あまりにもしつこく、猫が薄雲に憑いたのではないかと思った三浦屋のものが、玉の首を切り落としてしまった。 ところが、切り離された首が厠の中へ飛んでいき、中に潜んでいた蛇の頭に噛みついた。 つまり玉は厠へ潜んでいた蛇から薄雲を守ろうとしていたということであった。 これを不憫に思った薄雲は玉を丁重に葬り、京都から伽羅(きゃら)の香木を取り寄せ、玉の像を作らせた。 これが招き猫の元となったという説である。)

 榎本其角の句に「京町の猫通ひけり揚屋町」があるほか、岡本綺堂の半七捕物帳に 「薄雲の碁盤」 という小説があり、薄雲と猫(玉)に関わる逸話が書かれています。

* インターネットの図書館、青空文庫より(以下のサイトで全文が参照できます)

http://www.aozora.gr.jp/cards/000082/files/1022_15044.html

                               

 薄雲と猫に関しては他にも多くの逸話、物語があります。 

 ・近世江都著聞集(きんせいえどちょもんしゅう)から「三浦遊女薄雲が伝 」

 ・烟花清談から「三浦や薄雲(あいしねこ)(わさはひ)のかれし事 」 など

                    

歌川広重 この猫の主人が薄雲のようです

                 

 坂城出身の薄雲は源六という人物に身請けをされるのですが、その証文が残っています。 以下、その現代語訳です。

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  元禄13年(1700年)の薄雲身請の証文

「薄雲という太夫(または、花魁)はまだ年季の途中であるが、私の妻にいたしたく、色々な所へ相談し許可を得ました。また、衣類や夜着、蒲団、手荷物、長持ちなども一緒に引き取ることといたしました。酒宴のための酒樽代金350両をあなたに差し上げます。私は今後、御公儀より御法度とされている町中(の女郎)やばいた、旅の途中の茶屋やはたごの遊女がましき所へは出入りをいたしません。もし、そのようなことをして薄雲と離別するようなことがあれば、金子100両に家屋敷を添えてひまを出します。後日の証文といたします。元禄13年辰7月3日 貰主源六、証人平右衛門、同じく半四郎。四郎左右衛門殿」

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なかなか、殊勝な証文です。

ただし、薄雲が350両という大金で身請けされた後、幸せな生涯を送ったのかどうかは不明です。

                              

 しかし、薄雲の死後、形見(実際には高尾太夫から受け継いだもの)といわれる打掛(裲襠 (りょうとう))が坂城の耕雲寺さんに収められ、それが現在では卓敷きに改められて、保管されているとのことです。(耕雲寺寺宝)

 私は現物は拝見しておりませんが、中嶋登 町会議員さんから写真を提供していただきました。

       寳物 高尾圓盡卓袱    

                                              

 また、浮雲の和歌が絵馬として上田市別所観音堂に額面となって残っています。

 歌:しき妙の枕に残るうつり香を我身にしみてひとりかもねん

                       

 薄雲についてはまだまだ不明の点が多く、あとで補足をしたいと思いますが、今回は坂城鼠宿出身の有名な薄雲太夫がいたということをお伝えします。

以上、 「鼠」 出身で 「猫」 を愛した薄雲太夫のお話でした。

 皆様からご意見をいただきたく。

                  

*過去の「坂城の100人」をご覧になる場合は、画面右上の「記事から検索」に 坂城の100人 とインプットして検索をしていただくとすべての記述が出てきます。

         

                           

 坂城町長 山村ひろし

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