坂城の100人 第27回目は「往海玄古」

往海玄古は埴科郡横尾村に 「玄古たばこ」 の種を持ち込み、近在の村々の名産物にしたお坊さんです。

ただし、この玄古和尚がなぜ横尾村に来たのかは諸説あって不明な面が多いようです。

江戸期を通して(幕末まで)、坂城で特産の煙草を普及させた、玄古和尚の功績についてもっと評価すべきだと思っています。

先日、「たばこと塩の博物館」に問い合わせをしたところ、いくつかの資料をご紹介いただきました。

まず、玄古和尚についてですが、明治30年ころの資料によると武蔵国児玉郡今井町(現埼玉県本庄市)の出身で、元和年間(1615年~1624年)、諸国を遍歴した後に埴科郡に到来し、南条に庵をくみ薩摩から持ち寄った煙草の種を移植したとされています。

以下、明治30年頃に集められた史料をもとに、全国で『煙草調査書』が作成された小出雲の『煙草調査書』の一部を掲載します。(「たばこと塩の博物館」 学芸員 湯浅淑子さんから提供いただきました。)

「沿革
日記ノ伝フル処ニヨルニ、元和年間秀忠公ノ将軍タルトキ、作洲津ノ山ノ城主森右近ノ所領タリシトキ、釈門玄古ナルモノ{武蔵国児玉郡今井町(方今共和村)高橋左京之助ノ男}幼少ノ頃ヨリ諸国ヲ遍歴シ、其帰路薩州国分ヨリ種子ヲ得、コレヲ埴科郡ニ携帯シ、南條村ニ庵ヲ立テ、コゝニ初メテ栽植セリ、{或説ニハ薩摩ノ僧ナリト云ヒ南條村ノ住職ナリトモ云フ}而シテ其当時ハ位置ハ今尚存スルカ、寺庵附近一町歩余ノ小丘ナリト{其一ニ設建セラレタル碑文アリ寛文三年四月二十八日遷化}之レ玄古煙草栽培ノ起原ニシテ、玄古葉ノ播種セラレテヨリ近郷漸次耕作スルニ至リ、七十四余年前頃迄ハ全盛ヲ極メケルモノノ如ニシテ、小県郡上田町ハコレカ集散ノ中心トナリ、其需用ノ区域ハ佐久平ヲ主トシ、関東諸国ニ至タリ」

これによると、江戸の末期でも上田を集積所として佐久平、関東に広く盛んに出荷していたことが分かります。

また、玄古については、「或説ニハ薩摩ノ僧ナリト云ヒ南條村ノ住職ナリトモ云フ」とあるように、薩摩の僧、あるいは南條村の住職であると言い、南條の寺庵近くの丘に1町歩ほど栽培をしていたとのことです。

                                  

また、これも湯浅さんからご紹介いただいたのですが、江戸のたばこ屋三河屋弥平次が文政頃(1818年~1830年)に記した記録 「煙草諸国名産」 (『狂歌煙草百首』という本の一部)には、『玄古煙草は(玄固煙草と記されている)、埴科郡横尾村の庵室に玄古坊という僧がおり、諸国を遍歴するうち、丹波から煙草の種を持ち帰った』と記されています。

西尾市岩瀬文庫ディジタル資料に 「煙草諸国名産」 が収録されていました。 (岩瀬文庫は愛知県西尾市の古書専門の博物館)

「煙草諸国名産」 (西尾市岩瀬文庫ディジタル資料より)

上段に玄古坊が横尾村に煙草を持ち込んだと書かれていますが、「丹波」から持ち帰ったと記されています。

私は喫煙者ではありませんので煙草の味は分かりませんが、「ふるさと探訪」(坂城町教育委員会)によると、『「玄古たばこ」は、味は辛いが香気があり、坂木五千石の代官長谷川安左衛門から領主高田松平氏へ献納された記録が残されている』 そうです。

玄古碑 (往海玄古 主庵)(町横尾)

玄古碑(裏面)(町横尾)

「たばこ元祖、埴科郡横尾村」

往海玄古の墓(寛文3年―1663年)(町横尾)

                  

中央の表記には 『右の自然石は他所にあったものを後に移したもので読み取ることは難しくなっているが、「この所に於いて往海玄古法師は玄古たばこ元祖者也」と思われる』 と記述されています。

* かつての特産物 「玄古たばこ」 について、あるいは往海玄古について資料をお持ちの方がおられましたらご教授下さい。

坂城町長 山村ひろし

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