この章も 「老子的生き方」 について述べています。
道のあり方をよく理解し、「道」を踏襲すれば終生危ういことがないと言うことです。
天下有始、以爲天下母。 既知其母、復知其子、既知其子、復守其母、没身不殆。 塞其兌、閇其門、終身不勤。 開其兌、濟其事、終身不救。 見小曰明、守柔曰強。 用其光、復歸其明、無遺身殃。 是謂習常。
天下に始(はじめ)有り、以(も)って天下の母と爲(な)る。 既にその母を知り、復(また)其の子たるを知る。 既に其の子たるを知り、復其の母を守れば、身を没するまで殆(あや)ふからず。 其の兌(あな)を塞(ふさ)ぎ、其の門を閉づれば、終身勤(つか)れず。 其の兌を開き、其の事を濟(な)せば、終身救はれず。 小を見るを明と曰(い)ひ、柔を守るを強と曰ふ。 其の光を用ひて、其の明に復歸すれば、身に殃(わざわひ)を遺(のこ)す無し。 これを習常と謂(い)う。
この世の中のはじめにはその根源があります。 それが世の中の「母」と言えるでしょう。 その「母」の存在を良く理解し、そこから生まれた現実の世界つまり「子」の実態を知ることが大切です。 その世の中の実態を知り、根源である「母」を大切に守ることができれば終生危うくなることはありません。
欲望や好奇心のもととなる耳目・五感や心の門をしっかりと閉じていれば一生疲れることはありませんが、逆にすべての感覚を開け放ってしまうと生涯救われることはありません。
五感で察知できないような微小なものや兆しをとらえることが出来ることを明知と言います。 また、常に柔軟なありかたを守ることはむしろ本当の強さと言えます。 どんな微弱な光をとらえ常に明知を働けせることができれば自らの災いは無くなります。 これを常の道に従う恒常と言います。
一定不変の 「常道」 に従っていれさえすれば、終身勤(つか)れず、終身救われるということのようですね。
坂城町長 山村ひろし